2008年07月10日

世界の話

郡山に戻ってから、気になってようやく読み始めた本がある。

ソフィーの世界。

これは父から、ちょうど本の主人公のソフィーと同じ15歳くらいのときにもらった。
(ということは、今から10年以上前だ。)

当時は、果たして最後まで読んだのか定かじゃない。
結末をぼんやり覚えているような…しかしほんとにあれは、この本のシーンだっけ?

今はまだ7分の1くらいだけど、ソフィーの一人称については、けっこうよく覚えている。
けっこう、私も好きな不思議なお話しなのだ。
でも、お話しのもう一つの筋、哲学講座はほとんど覚えてない。
今でもついていくのがたいへん。
ようやく読めるトシになったのだ。

おかげで、なんだか脳みそがひっくり返るような感じ。

だって、この本で語られている、合理主義とか、
このところの私は、人間が頭をひねってこねくりだしたロジックとかそういうものから、なるべく離れようとしていたのだ。
鈍くなってしまった感覚を起こして活動の源にしようと、もっと言えば、感覚に溺れようとしていた。

だから、それこそどうでも良いと思っていたことを、さぁ、考えてごらん、と言うのだ。
もちろん、もうどうでも良いとは思えない。
彼の言う合理主義や理性は、私の捉えていたことと、表すものが違うのだろう。
哲学の先にあるものも、農業の先にあるものも、きっと同じ何かがある。

なんだ、この世界の中心には何があるんだ?


この前、ありさと話していて、私は、この世界には、人間が少しずつ便利になろうとしていろんなものを上に重ねてきて、「今」は、その一番外側にある、と話した。
中にあるものが覆われてしまって、そのことに気がついて、違和感をおぼえる人がいるのではないか、と。

そして、ありさが、世界の中で、彼女の今いる位置を教えてくれ、マクロとミクロの話をした。

私たちが、若いうちから、いきなりマクロの仕事もできるように、先人たち、ご先祖さまは、いっしょうけんめいに今の社会を築いてくれたんだ。
そして私は、世界の一番外側で、大きなものを動かせる仕事を任されようとしていた。
ものすごくありがたいことだ。
でも、地面はいったいどうなっているのか?
実感をして、自分が立っていることを、場所を確認したかった。
だから、私は、一番外側から降りてきた。

世界の中心にむかって、種を植えるために歩きだした。
たぶん、そういうことなんだ。
posted by かわら at 18:29| Comment(0) | 日本の自然を巡る旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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